2009年06月26日

フセイン政権とアル・カーイダの関係

2008年3月、国防総省は正式に「フセインとアルカーイダの関係を示す決定的証拠はない、認められるのはパレスチナ武装勢力との関係のみ」とする報告書をまとめた。なお、報告全文は当初インターネットでの公開が予定されていたが、直前になって突如文書頒布のみに切り替えられた。
イラク戦争は5月1日の『戦闘終結宣言』によって、連合軍は圧倒的勝利という姿で、形式的にはイラクへの攻撃を終了した。イラクはアメリカ軍のバグダッド進攻によるフセイン政権崩壊以降、国連安保理決議1483に基づいてアメリカ国防総省人道復興支援室および連合国暫定当局(CPA)の統治下に入って復興業務が行われることとなった。

アメリカ軍がバグダッドに進攻すれば市民は諸手を挙げて歓迎し、米軍と共にフセイン体制打倒に決起してくれるだろうと考えていたブッシュ政権であったが、その観測は後に裏切られる事になる。

少数の兵力しか用いないという米英軍の戦術は進攻作戦においては大いに役に立ったが、占領政策にはひどく不向きであったと現在では考えられている。敵の軍隊のみを排除すればいい軍事行動とは違って、占領時にはインフラの復旧、治安の確保、食糧の配給など様々な活動が求められるが、兵士の数が足りないためどれも完全には行なえず、結果イラク国民の反発を招き、更に治安の悪化が進み、より多くの兵士が必要となるという悪循環を招いている。
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進攻当時、抵抗らしい抵抗をしなかった旧イラク軍だが、大規模兵器を早々と放棄し、小型の武器弾薬をこっそり隠して米軍に対してレジスタンス攻撃をしきりに行い、現在も継続していると考えられている。これはフセイン自身も証言し、大統領宮殿などからも証拠を確保したが、湾岸戦争終結時より計画していたもので、経済制裁を受ける中で、最低限の材料で爆弾を製造する方法なども情報機関や軍によって研究されており、攻勢を受ける間は抵抗せずに地下にもぐり、攻勢をやめた占領軍に対して爆弾で攻撃をかけていると考えられた。米英軍の占領政策はこのような事態を全く予測しておらず(ないしは非常に軽視したものと考えられ)、これは明らかに情報分析の初歩的敗北であり、「戦闘終結宣言」後に大量の死者を出す結果を招いた。現代において戦場で最も重要視される情報入手・統制、リスク分析において欠陥があったことは米英占領軍にとってはかなりの痛手であった。現状ではさらに旧軍人だけでなく、武装集団や過激派も活動を活発化させており、アメリカ軍や軍属、イラクで活動する民間人やマスコミ関係者への襲撃も増加している。

2009年06月10日

魚ロッケ(ギョロッケ、ぎょろっけ)とは

魚ロッケ(ギョロッケ、ぎょろっけ)とは、佐賀県唐津市、大分県津久見市等の名産品。魚のすり身(ミンチ)にパン粉を付けて揚げたもので、寸法や中身が魚で外見がコロッケのようであるところからその名が付けられた。なお「魚ロッケ」という名称については、山口県萩市の荒川かまぼこ店の登録商標となっている(1989年に出願され、1992年商標登録。2002年に更新され2012年まで存続)。
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佐賀県唐津市では藤川蒲鉾本店が昭和初年代に商品化した。当初は「ハイカラ天」や「カレー天」や「パン粉天」等と呼ばれたが、いつしか魚ロッケと呼ばれるようになった[1]。テレビ局の取材を受けた人が“魚ロッケ無くして唐津は語れません”と言ったほど、地元庶民に愛される食べ物である。現在藤川蒲鉾本店では、「カレー風味」と「あっさり塩味」の二種類の味で一日20,000個以上を製造し、県内のみならず全国で販売している。2007年には山崎製パンと藤川蒲鉾本店の共同企画で魚ロッケが入ったパン「魚ロッケの里」が開発され、九州と下関のローソンで販売された。

大分県津久見市ではぎょろっけと呼ばれる。ぎょろっけは、魚のすり身に野菜と少量の唐辛子を加え、パン粉をまぶしてコロッケ状に揚げたもので、ピリ辛味である。1940年代に開発されたもので、地元では毎日の食卓に欠かせない惣菜である。gyorokke.co.jpのドメインも持つ太田商店では一日8,000個以上を販売している。

2009年06月07日

主を失った扇谷上杉家は断絶

当主を失った扇谷上杉家は断絶、敗走した関東管領の山内上杉家もこの後急速に勢力を失い、数年後には上杉憲政が居城の平井城を追われ、越後の長尾景虎を頼ることになる。同じく敗走した古河公方の足利晴氏もこの直後に御所を包囲され降伏、隠居し北条の一族である義氏に家督を譲ることを余儀なくされる。長尾景虎は憲政から上杉姓と関東管領職を譲り受け、一字拝領して上杉政虎と名乗ることになり、関東の覇権を北条家から奪い返すために関東征伐をおこなうも果たせなかった。

一方、北条家は関東南西部で勢力圏を拡大し、戦国大名としての地位を固めることになる。甲相駿三国同盟の締結により駿河今川家や甲斐武田家との対立に終止符を打つと、関東制覇を目指し越後の上杉家や佐竹家との抗争を始めてゆく。
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河越城の戦いは、約10倍の兵力差を覆しての勝利として、戦史上高く評価されているものの、合戦があったとされる年は史料によって異なったり、実際に夜戦であったかなど、不明な点が多い合戦でもある。合戦に勝った北条家からの感状類の現存が無いことから、大規模な合戦ではなかったとの説もあるが、戦場とされる地域から刀疵のある兜といった出土品があり、少なくとも何らかの戦闘自体はあったとされるのが一般的である。 なお、川越夜戦の激戦地と伝えられる東明寺(川越市志多町)の境内に河越夜戦跡の碑が建てられており、当時は一名を「東明寺口合戦」とも言われたと碑文に記述がある。

2009年04月23日

著名な白系ロシア人

ウクライナ出身の航空機設計者で1913年に世界初の4発機イリヤー・ムーロミェツを開発したイーゴリ・シコールスキイは、革命後アメリカ合衆国に亡命した。彼の創業した「シコルスキー社」は特にヘリコプター開発において世界有数の規模を誇っていた。

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アーケードゲーム業界大手で有名なタイトーの創業者ミハエル・コーガンも白系ロシア人に該当する。

なお、レーニン死後、差別的な扱いを受けることが多くなったユダヤ人も亡命することがあった。アメリカの人気SFシリーズ「スタートレック・宇宙大作戦」に登場するミスター・スポック役のレナード・ニモイは両親がユダヤ系ロシア人である。また、テオ・アンゲロプロスの映画『エレニの旅』ではオデッサから逃れた亡命ギリシャ人家族が描かれた。

また、満州国やその周辺地域へ亡命した者も多くおり、その中から対ソ謀略専門の満州国軍浅野部隊が編成されていた。この他、極東では反ソ連派ウクライナ人により緑ウクライナが建国されたが、戦争に敗れ亡ぼされた。

日本への亡命者
日本に亡命した旧ロシア帝国国民も多くいた。その内訳には、民族的なロシア人の他にかなり多くの非ロシア人、つまりポーランド人やウクライナ人が含まれていた。しかし、非ロシア人の多くも日本において通用しがたいウクライナ語やポーランド語を用いる代わりに、それよりは通じやすいロシア語を用いたことから、日本では彼らは「ロシア人」であると誤解された。

創生期のプロ野球で300勝を記録したヴィクトル・スタルヒン(日本名:須田博。日本国籍帰化申請は受理されず、生涯無国籍)、神戸の老舗洋菓子店「モロゾフ」(ガラス容器入りプリンで人気を博した)創業者バレンタイン・F・モロゾフ(※その後モロゾフ家の末裔は「モロゾフ社」ではなくこちらも有名な「コスモポリタン製菓」を経営していたが、2006年廃業)、同じく神戸の洋菓子メーカー「ゴンチャロフ製菓」(チョコレート菓子中心。ウイスキーボンボンで有名)創業者マカロフ・ゴンチャロフも白系ロシア人である。

2009年04月22日

ティワナク(Tiwanaku)

ティワナク(Tiwanaku)またはティアワナコ(Tiahuanaco)は、南米ボリビア共和国にあるプレ・インカ期の遺跡名、およびその管区と村の地名。また、その時代の社会や文化をさす言葉としても用いられる。

2000年に世界遺産に登録された。入場料は、2006年現在10 USドル (80ボリビアーノ) するが、破壊がすさまじく、残念ながらめぼしいものはない。ただし、遺跡に付設する博物館に出土遺物が展示されており、博物館入館料も入場料に含まれている。

ティワナク遺跡は、現在のボリビア共和国、ラパス県、インガビ郡(Ingavi)、ティワナク管区 (Canton Tiwanaku)に位置する。チチカカ湖沿岸から内陸へ約17 kmほど入ったところにある。現在、遺跡は一部復元されているが、そのほとんどが徹底的に壊されており、また風化も激しいため、昔日の面影はほとんど残っていない。

この遺跡は宗教的巡礼地であり、普段は人々が住むことのない場所、としばらくの間、考えられてきた。それは征服者や欧米人にとって、この地域があまりにも自然環境の厳しい土地に映ったからである。標高が4000 m近くあり、ほとんどの食用栽培植物は育たない。このような地域では、多くの人口をまかなうだけの食糧の生産もできず、国家レベルの複雑な社会など成立しようがないと長い間思われてきたのである。 しかし、近年の調査によって、この遺跡の周囲にはかなりの住居址が存在していることが確認され、当時は都市的様相を呈していたとが次第に明らかになってきた。また、食糧生産についても、さまざまな研究から、実際にはこの土地はこれまで思われていたほど貧しくはないことがあきらかになっている。

2006年4月現在、発掘および修復作業が進められており、次第に遺跡の様相が明らかにされつつある。

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名称の由来
現在では、世界遺産登録の名称であるTiwanakuを使うことが多いが、現地では、Tiahuanaco, Tiahuanacu, Tihuanacuなどと表記されることもある。 現地の先住民族の言語であるアイマラ語では、母音がa, i, u の3音しかないので、本来の音はTiwanakuあるいはTiahunacuが近い。この名称の起源は、インカがこの地を訪れたときに飛脚に対して「ここへ座れ、グワナコよ」と言ったことが起源とする説があるが、確かではない。本来はこの地は、Taypi Kala(世界の中心、直訳すれば、石の中心)などと呼ばれていた。

日本では「ティアワナコ」という名称が用いられていた時期もあったが、近年では「ティワナク」の表記に統一されており、本記事では、世界遺産登録名や現地の村役場の正式名称 (Municipio de Tiwanaku) なども考慮して「ティワナク」を項目名とした。

この文化の起源は、紀元前にまでさかのぼるとされるがまだはっきりとはわかっていない。ティワナク独自の文化が形成されてくるのは、紀元前1-2世紀ころからであるが、その文化が広範囲に広がり始めるのは紀元後400年頃からである。その最盛期は、おおよそ750年-800年ころから1000年前後-1100年頃で、その頃になると、北はペルー領のチチカカ湖北岸や現在のモケグワ県、南はチリのサン・ペドロ・デ・アタカマやアルゼンチン北部、東は現在のボリビアのコチャバンバ地方にまで影響が及んだとされている。これらの地方のいくつかにはティワナクの飛び地があったとされており、特にモケグワにはティワナク様式の土器やテラス状構造の基壇からなり方形の半地下式広場を持つ建造物が存在する。

ただし、近年、研究者の間で、ティワナク(場合によっては、いくつかのアンデスの先スペイン期社会も含まれる)は旧大陸のいくつかの帝国とは異なり、中央集権的官僚的な権力によって広大な領域を、面的に、恒常的に支配するような性格をもった社会ではなかったという見方が提示されている。この傾向は、特にここ数年、現地ボリビアの研究者の間で唱えられることが多い[1]。

領域に関して考古学的に確実にいえるのは、あくまで、ティワナクからの移民が想定される飛び地(モケグワ)の存在と、ティワナク関連遺物の分布が中央-南アンデスにおいて幅広く確認されている、という2点のみである。

よって、右のような版図を描くティワナクの面的な領域図は、今後書き直される可能性が高まっている。このような領域的模式図を書くのは、得てしてアメリカ人研究者に多く見られることも指摘しておく[2]。

同時代には、現在のペルー共和国にワリと呼ばれる政治組織が存在していたことが確認されている。かつて、このワリはティワナコイデあるいは海岸ティアワナコとよばれていたが、現在ではティワナクとは異なった政治組織および文化であったとされている。その境界はおおよそモケグワ県あたりであったといわれている。モケグワには、ワリの地方遺跡であるセロ・バウルとティワナクの飛び地であるオモ遺跡群がある。これらは、それぞれ立地条件が異なっており、セロ・バウルが山の頂に、オモ遺跡群がモケグワ川の近く谷底周辺に立地する。両者の具体的な関係はわかっていない。

このワリとティワナクが共存する時代を、アンデス考古学の編年で中期ホライズンと呼ぶことがある。

2009年04月05日

恋川春町

恋川 春町(こいかわはるまち 1744年(延享元年) - 1789年8月27日(寛政元年7月7日))は江戸時代中期の戯作者である。酒上不埒(さけのうえのふらち)という名で狂歌も詠んだ。浮世絵を学び、画も自ら描いた。

本名は倉橋格(くらはしいたる)。駿河の小島藩・滝脇松平家の江戸詰用人であった。藩邸のあった小石川春日町から恋川春町というペンネームを付けた。『金々先生栄花夢』でのちに黄表紙といわれるジャンルを開拓し、一躍売れっ子作家となる。

10歳近く年上の狂歌・戯作仲間の朋誠堂喜三二とは特に仲がよく、喜三二の文に春町の画というコンビ作も多い。再婚相手も喜三二の取り持ちという。

松平定信の文武奨励策を風刺した黄表紙を執筆したことから、1789年(寛政元年)、定信に呼び出しを受け、春町は病気として出頭しなかったが、まもなく死去したという(自殺ともいわれる)。墓は東京都新宿区新宿二丁目の成覚寺にあり、新宿区指定史跡となっている。

代表作 [編集]
『金々先生栄花夢』{きんきんせんせいえいがのゆめ}(1775年)
『高慢斎行脚日記』{こうまんさいあんぎゃにき}
『鸚鵡返文武二道』{おうむがえしぶんぶのふたみち}(1788年)
『無益委記』{むだいき}

まっち棒 きたみ ショートス バルト デンバー トスタチン チップ はじめて ばんか カラー ニュー ラジウム アドミラル プロフィット ネリカ スレッド 恋草子 ラッカー プレミア コリック サーフス ケード アサイン サーチ大潮 リンガ メイリオ オブラー ソクラ コサック からし菜 パラリ ゲバ上位 ヌーデン セルフレジ 草枕 トング 夢の果て ホソル びわ検 ひつじの涙 チャイ ナッツ パー 対策リマ ブラボ タイム ラングーン メキシコ ハクサンイ かいらん

2009年03月21日

試作車の量産化改造

12両の試作車について、運用上の取扱い共通化のため各部仕様を量産車に合わせる改造を1982年(昭和57年) - 1984年(昭和59年)に施工した。
車体は非常窓と非常口を廃止[10]し、普通車は座席モケットを茶色の単色に変更した。[11]
キロ182-901 は車販準備室の拡大・車掌室の客室側への移設などの改造を実施し、座席定員は8名減の32名に変更された。非常扉は完全に撤去され、床や壁も量産タイプに交換された。座席配列は4列シートのまま2001年(平成12年)の廃車まで使用された。
本件による改造にあわせて、循環式汚物処理装置の取付を全車に実施している。
編成短縮対応
先頭車化改造(キハ183形100番台)
1985年3月ダイヤ改正での編成短縮に伴い不足する先頭車を補うため、電源装置付きの中間車キハ184形を先頭車(キハ183形)に改造したものである。運転台は後位に新設された。
運転台は分割併合に対応する貫通型[12]で、在来のキハ183形とは形態が異なり100番台を付番して区別する。改造後の定員は40名で、キハ183形初期車と同一である。トイレ・洗面所は装備しない。
正面貫通扉上部付近の手すりの取付け方は改造施工工場ごとに異なり、五稜郭工場施工車 (101, 103) は縦配置、苗穂工場施工車 (102, 104) は横配置である。
外部塗色は当初、前頭部の正面 - 側面下部を赤2号とするキハ183形基本番台に準じた塗り分けとされたが、短期間で変更され、正面中央に翼状の意匠を配したキハ82形類似の塗り分けとなる。
※キハ184-1・4・3・5→キハ183-101 - 104
左:キハ183-103(1998年8月 網走駅)
右:キハ183-104(2007年10月 札幌駅)
グリーン車化改造(キロ184形900番台)
1985年3月改正ではグリーン車も不足するため、キハ184形試作車 (901) がグリーン車に改造された。
電源用機関を撤去[13]して機器室を車販準備室に改装した。座席はグリーン車用のリクライニングシート[14]に交換され、定員は32名とされた。
走行用機関は種車の DMF15HSA をそのまま使用した。
1988年度に内装更新を行い、座席配置を2+1列に変更して定員24名となった。並行して車販準備室の拡大と車掌室の設置を行い、キロ182形と設備を統一している。同時に走行用機関と変速機を各々 DMF13HZ (330PS/2,000rpm) ・DW13A に更新した。
※キハ184-901→キロ184-901
110 km/h 運転対応
1985年6月以降、試作車・基本番台を対象に、最高速度を 100 km/h から 110 km/h に向上するための対応が行われた。機関出力の増強とブレーキの強化が主で、キハ183形・キハ184形では定格出力が 220PS→250PS に、キハ182形・キロ182形では 440PS→500PS に向上された。機関形式の変更はない。ブレーキ装置はブレーキシリンダを強化とともに焼結合金製制輪子への交換、台車周りでは車輪の保守限界の引き上げを実施している。
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JR北海道 [編集]

民営化初期の改造 [編集]
グリーン車(基本番台)内装更新
N183系の導入により、陳腐化が目立っていたグリーン車キロ182形基本番台の内装更新工事を1987 - 1988年に実施した。
客室内張りや敷物の張り替え、トイレ・洗面所の更新を行ったほか、座席は配置を 2+1 列に変更のうえ各席に液晶ディスプレイを設置した。施工後の定員は24名である。車掌室にはカード式公衆電話が設置された。
※キロ182-1・5・7 - 9、キロ184-901

「北斗」向け改造 [編集]
130 km/h 運転対応改造(2550・3550番台)
1994年3月ダイヤ改正のキハ281系による特急「スーパー北斗」運転開始に合わせ、本系列を使用する一部の「北斗」で最高速度 130 km/h 運転を実施するための改造である。
ダイナミックブレーキを装備するN183系(キロ182形500番台)NN183系(キハ182形550番台・キハ183形1550番台)を対象にブレーキ装置を強化する改造を行い、ブレーキテコ比変更・ブレーキシリンダーの大型化・圧力の増強、滑走検知装置の各軸方式への変更が実施された。改造実施車はブレーキ圧力が在来車と異なるため、未施工車との混結はできない。
キロ182形は機関にインタークーラーを追加し、NN183系と同等の DML30HZ (660PS/2,000rpm) に変更された。台車にはヨーダンパが追設された。
形式番号は、キハ182形・キハ183形は 原番+2000 、キロ182形は 原番+2050 の付番とされた。
※キハ183-1559・1563 - 1566→キハ183-3559・3563 - 3566
※キハ182-551 - 562→キハ182-2551 - 2562
※キロ182-501 - 503→キロ182-2551 - 2553
従来車混結対応改造(4550番台)
在来車と共用で予備車を確保するため、キハ183形の一部を 130・120 km/h 両用仕様とする改造を1993年 - 1994年に実施した。ブレーキシリンダー圧力切替弁による自動切替機能を追加し、車号は 原番+3000 を付番した。
※キハ183-1558・3559・1560 - 1562 → キハ183-4558 - 4562

グリーン車(500番台)内装更新
キハ281系のグリーン車と設備をあわせるため、「北斗」用のグリーン車キロ182形(500番台)の内装更新を行った。
座席配置は1+2列に変更され、定員は24名に減少した。客室内は完全禁煙とされ、車掌室横の荷物室を撤去して喫煙コーナーが設置された。
対象は 501 - 507 の7両[15]で、501 - 503 は 130 km/h 運転対応を併せて実施し、2551 - 2553 を付番した。

内装更新・塗装変更 (HET183)
上記の 130 km/h 対応改造車を含め「北斗」に使用する本系列全車について、座席やカーテンの取替えなどキハ281系に準じた内外装の改良を行った。
施工車の外部塗色は地色がライトグレー、前頭部とデッキ周囲がコバルトブルー+萌黄色の塗り分けに変更され、客室窓直下にラベンダーパープル+萌黄色の帯を配した。キハ281系の意匠に合わせた配色で、運転台側面には" HET183 Hokkaido Express Train 183 " のロゴマークが配される。
最高速度の識別表記
「北斗」向け 130 km/h 対応改造後は、最高速度の異なる車両を同一編成に混用できなくなった。速度種別を明確にし、列車組成の相違を防ぐため、本系列の全車に最高速度表示が付記された。リゾート用車両は付記の対象外としている。
各車両の正面・妻面下方に最高速度を表記するもので、 130 km/h 対応改造車は「130」、混結対応車(4550番台)[16]は「130/120」を表記した。他の車両は各々の仕様毎に「110」「120」を表記した

2009年03月06日

単縦陣戦法

17世紀前半の舷側砲の性能向上によって、その火力を他の艦に遮られることなく最大限に発揮するために、艦隊は縦1列に並んで戦うべきであるという結論が導き出された。

単縦陣戦法はイギリス海軍の伝統的な戦法となった。特に1653年に「航海戦闘術」を書いたロバート・ブレイク将軍によるところが大きい。最初に文献に残っているのは、やや早く1639年9月18日の戦闘におけるオランダのマールテン・トロンプ中将がスペイン軍に対して取った戦法である。この戦法は英蘭戦争では両軍とも用い、「戦闘術」として文書化された。これが17世紀と18世紀の海戦では基本的な戦法となった。

単縦陣戦法で大事なことは船の1隻1隻が十分に強くなければならないことである。旧時代の乱戦の中では小さな船は同じような大きさの船を探して戦うか、あるいは複数で大きな船に戦いを挑むことができた。単縦陣戦法が採用されると海軍は戦列を組める船とそうではない小さな船とを区別し始めた。1660年代に単縦陣戦法が標準的な戦闘隊形として確立されると、商船や軽武装の軍艦は会戦の中での位置付けが無くなっていった。単縦陣戦法では、敵の戦列の対応する艦がいかに強力であったとしても、それに独力で立ち向わねばならない。そうした単縦陣戦法に対応して、独力で戦う十分な戦力を持った持った船として作られたのが戦列艦である。

風上の重要性
風上をとるということは戦術的に重要なポイントとなった。風上を取った提督は戦闘の主導権を握った。風上を維持することで敵を叩くことも回避することもできた。風下の艦隊はさらに風下に逃げることはできたが、戦いを挑むことは出来なかった。2つの船隊が接近していて風下に向かえば後ろを襲われる危険性が高いような場合は、風下に撤退することすら難しかった。風下にいることの2つめの欠点は、弱風以外の時に接近戦を演じていると、風圧で風下に傾き船底を敵の砲の前にさらけ出してしまうことである。通常は水面下にある船体の一部に穴を開けられれば、逆の開きになった時に浸水し、さらに沈没さえしてしまう危険性がある。このことは「風と水の間の船殻("hulled between wind and water")」として知られる。もう一つ、風上の船から流れてくる硝煙は当然風下に向かって視界を悪くする。提督が敵の風上を取ろうとして何日も操船に費やすような戦いがよく行われた。例えば、1778年のウェサン島の海戦、1780年のセントルシア海峡の海戦、1794年の栄光の6月1日の海戦などである。

強風が吹く場合にのみ、風上に不利が生じる。風下側に傾き低くなった砲門が波に洗われるので、浸水のリスクを避けるには低層甲板の開口部を閉じておかねばならないからである。そのため、風上から攻撃する艦は下層甲板に装備した重砲を使うことができないのに対し、一方風下の敵艦は風上側の砲が船の傾斜で持ち上げられるのでそのような問題がない。この理由から、荒天で行われた1780年のサン・ビセンテ岬の月光の海戦では、ジョージ・ロドニー提督は指揮下の艦にスペイン艦隊を風下から攻撃するよう命じた。

フランス海軍における海軍戦術の発展
フランス海軍では、戦術家のポール・オスト、ビゴー・ド・モローグ、ブールド・ド・ヴィルユーの論文で帆走戦術が発展した。また他言語にも翻訳された。

18世紀、フランス政府は制海権を求めて戦うよりも個々の作戦目的の達成を優先させる戦略を取った。フランス政府はその戦略的な目的を達成するために戦術的なリスクを冒すことに消極的だった。海軍はその命令の臆病さに拘束されていた。フランス艦隊はイギリス艦隊と戦うリスクを冒すよりも避ける方を選んだ。それは例えば1780年6月、ド・テルネーがバミューダ沖でウィリアム・コーンウォリス指揮下のイギリス戦隊に遭遇した時の行動に現れている。
ドール ワーカー イエロー コヒル ナツメグ トリックス パントリ スプーン パハク ツイン イートイ しゃみ プリズム リンゴ ストロベ チュー オムライス 冒険家 サイメッ チュートリ チョン フェニ キャン ファンブル フィス サザン ビエラ デパー 木綿のハン コイズ ラウンド ジンコール パフス マザー オシレー にっけ ベンチ こかげ チョッキ 日本全国 ユニタ タグカード オプテ ユトレ アドイン フリゲート 極楽トンボ トルリン ワスレナ フェミ

この戦略は戦術的にも重要な結果をもたらした。フランス艦は、主に敵の帆装を攻撃して操作不能に陥らせ、それに乗じて戦場から逃れ、任務を継続する策を取った。そのためフランス艦は風下に位置し、風上舷の砲で攻撃したが、その場合には砲が上向きになるので、敵の帆装には損傷を与えても、船体や人員にはわずかな損害しか与えることができなかった。それとは対照的に、イギリスやオランダの軍艦は下向きの砲で敵の船体を攻撃したので、木材の破片などにより、敵砲手を多く死傷させることとなった。この戦術の違いが、イギリスとフランスの乗組員の被害の差を説明している。フランスは死傷者が多かっただけでなく、そのうちの死者の比率も高かった。

2009年02月14日

はっぴ〜ぶり〜でぃんぐ

両親の海外転勤により、広い家でひとり暮らしを余儀なくされていた主人公・高志。

最初は気楽な気分で過ごしていたが、最近ではマンネリな生活に倦みきってしまっているのが実情だった。
久兵衛 弁慶国内 ユニット ノール とうもろこし レーズン おっくう ジャル パイダー デザート カメオ 四ツ溝柿 ドヤム ハマー ジグ ブルー フライス デリー トレイル 養老 チロリ パンテ スパイラル ティッカー イール シドニー ハナタ フィッ ノンド キーロガー シャワ バクー国内 プレーヤー ピエタ タリン 白い香 オリーブ ライプ カップル 眠り姫 ネブラ リンス 待ちぼうけ ワースト スマート フリーレ ドックス デッサン ズバー

そんな高志の前に突然現れた、自分を「犬」という少女・チョコ。「行く場所がない」という彼女を居候させたのをきっかけとして、彼の許に次々と猫娘の皐槻(さつき)、金魚娘の雪乃(ゆきの)、鶴娘のほのかの総勢4人の動物娘が現れ、同居するようになる。

かくして、奇妙ながらもにぎやかな「家族」の暮らしが始まったのだった……。

高志(たかし)
ごく平凡な高校生。非常に寛大で鷹揚な性格の持ち主で、動物娘たち4人を純粋な善意で次々と同居させる。元々動物好きでもあるらしい。苗字は不明。

[編集] ヒロイン
チョコ 声優:杉沢結花(PC)、今井由香(DC PS2)
高志が最初に同居させた犬娘。髪の脇に垂れた長い犬耳と、ぴんとはね上がった尻尾が特徴。学校から帰宅した際、厨房で突然コロッケにかぶりついていた。行く場所がないということで同居になる。
底抜けに明るく子供っぽい性格で、底なしの食いしん坊という、ムードメーカー兼トラブルメーカー。
子犬の頃に出会って仲良くなり、そのままどこへともなく姿を消した少年のことを探している。
皐槻(さつき) 声優:長崎津久世(PC)、麻見順子(DC PS2)
2番目に同居させた猫娘。頭の横の大きな猫耳と、お尻から伸びたすらりと長い尻尾が特徴。学校からの帰途、雨に打たれて呆然と立ちつくしているのを保護、やはり行き場所がなく同居に。
最初はかたくなに心を閉じていたが、高志やチョコの姿を見るうちに徐々に心を開き、家事手伝いをするようになる。控えめでおとなしい性格。極度の照れ屋で、ほめられると真っ赤になってうつむいてしまう。
雪乃(ゆきの) 声優:海原エレナ(PC DC PS2)
3番目に同居させた金魚娘。妖精のように長く伸びた耳が特徴。高志が帰宅すると、いきなり玄関にずぶぬれの水着姿で座っていたという衝撃的な登場をする。しかも本人曰く高志が飼っていた金魚の「雪乃」であるということで、そのまま同居。
4人の中では一番外見も性格も幼く無邪気で、マスコット的存在。なお、金魚で声帯がなかったためか「あう」という喃語しかしゃべれず、その言葉は皐槻にしか理解出来ない。
ほのか 声優:川部法子(PC)、本間ゆかり(DC PS2)
4番目に同居させた鶴娘。一見するとまるで人間であるが、腰まである黒髪は翼と似た動きをし、開いたり閉じたりする。学校からの帰途、腹を空かせて座りこんでいたところを救護され、そのまま同居へ。
非常に短気な性格で、高志は自らの粗忽により当初大変な不興をこうむったが、のち仲直りする。気性は激しいながらも、時折素直な様子を見せたりもする。4人の中では一番年上で、まとめ役的役割を果たすことも。

[編集] サブキャラクター
魔女 声優:鳥居花音(PC DC PS2)
チョコたち4人を人間化した張本人。4人の様子を陰でうかがっているところを高志に見つかる。自称10万24歳、本名不明の謎の女性。突然現れては去っていく神出鬼没なキャラ。
何とも軽く明るい性格で、のらりくらりととらえどころがない。なお、後述の「はぴぶりいまさらふぁんでぃすく」では、なぜかちゃっかり高志の家に同居していたりもする。
雄太(ゆうた)
高志の親友。今風の平凡な高校生。磊落な性格で高志と極めて仲がよいが、それゆえに些細なことでけんかに至ることも。

展開とエンド
展開はエンド直前まで共通イベントに各ヒロイン独自のイベントが絡みながら進行し、ヒロインそれぞれのエンドに到達する形となっている。このため各ヒロインのシナリオは共通部分が極めて多い。DC・PS2版追加の魔女シナリオも同様の進行となる。

エンドは各ヒロインとも次々と攻略中以外のヒロインが「魔法の効力切れ」を理由に退場した後、攻略中のヒロインと一旦離別、1年後に攻略中のヒロインのみ完全な人間となって再会するという形式になっている。他のヒロインは戻らない。ただし魔女シナリオにはこの形式は適用されず、独自の展開となって全ヒロインが残留する。

各ヒロインのエンドとそこにつながる展開の概要は以下の通り。

チョコ
自分の肝煎りでお勧めの花見場所を教え花見をするが、その際に昔の記憶が蘇り、実は自分の探していた少年が転勤で一時転校していた高志であったと知る。
満開の桜の下で別れ、1年後やはり同じ桜の下で再会する。
皐槻
鈴を抱きしめて涙を浮かべながら寝言で母を呼ぶ姿が目撃される。
その後、実は皐槻の母親が破落戸の暴行に遭い殺されており、「人間になればいじめられないで済む」として人間になっていたことが判明する。
最後に母の首輪を託され雨の中で彼女と別れた高志は、獣医を志す決心をする。そして1年後、大学のキャンパスの中で再会する。
雪乃
高志と2人で出かけた夏祭りの想い出を胸に別離。1年後、一人で夏祭りに来ていた高志に不意打ちで声をかけ再会する。
再会時はしゃべれるようになっており、実はていねいな言葉遣いであることが判明する。
なおこのシナリオのみ、通辞のため皐槻がぎりぎりまで一緒に残留する。
ほのか
別離の翌年、クリスマスイブに街中の交叉点で再会。固く抱擁を交わす。
魔女
4人にいずれは先立たれてしまうことをあえて指摘、高志の覚悟を確かめる。
淡い恋心を抱いていた魔女は高志の強い想いに心打たれ、高志の許に留まることを決意する。

2009年01月28日

クラ湾夜戦

クラ湾夜戦(1943年7月5日 - 6日)とは、太平洋戦争中、ソロモン諸島で生起した日本軍とアメリカ軍との間の海戦。

6月30日、アメリカ軍はニュージョージア島ムンダ飛行場対岸のレンドバ島に上陸し占領した。 そして、7月5日にはニュージョージア島のムンダ東方海岸に上陸した。

この状況で、日本軍は第3水雷戦隊によりコロンバンガラ島への増援部隊を鼠輸送により行うことになった。

部隊は支援隊(駆逐艦新月、涼風、谷風)、第一次輸送隊(望月、三日月、浜風)、第二次輸送隊(天霧、初雪、長月、皐月)である。

一方、日本軍の海上交通遮断の為、コロンバンガラ島とニュージョージア島との間のクラ湾にはエインスワース少将の指揮する艦隊(軽巡洋艦ホノルル、ヘレナ、セントルイス、駆逐艦4隻)があった。

ショートランドを出撃した日本軍の艦隊はチョイセル島寄りに進んだ後南下し、クラ湾に入った。 そして、まず22:00に第一次輸送隊を分派した。 その約1時間後の23:05、新月が逆探で敵艦を探知したため、北上し、23:43に第二次輸送隊を分派した。

23:36、ヘレナがレーダーで新月を発見した。 23:48、新月もアメリカ艦隊を発見した。

23:56、アメリカ軍は攻撃を開始し、攻撃は新月に集中した。新月は沈没し秋山少将も戦死した。 この間、涼風、谷風は魚雷を発射し再装填のため一旦戦場を離脱した 。

7月6日00:02、ヘレナに魚雷が命中し沈没した。 涼風、谷風は魚雷の再装填後戦場に戻ったが、敵を発見できなかったため帰投した。

また、揚陸中に長月が座礁し、翌日空襲を受け沈没した。

日本軍は駆逐艦新月が撃沈され、第3水雷戦隊司令部が全滅したが、輸送は成功した。

7月12日には同じような経過でコロンバンガラ島沖海戦が発生した。
とまま 月の微笑 アテンポ アトゥドア トリビュ ブイWEB イアリン リスト タンザ マルチ ティック ガーナ デジャブ ぴっこ エミュー レーター マルク レンジャー チータ リーシム タカス イミング チャー オペレ トサミズ イチョウ ワラント ギアサン ミヤマ 一意専 ツァーリ テーマ ネメシア チャック プラグ フレンドリー キープトコ えいち リユース パラソル みるいろ ミル スキーヤー ダイウェブ フリータ カツラ ブラジル レジデント パテ シマル

参加兵力
日本軍
第3水雷戦隊(秋山輝男少将)
駆逐艦:新月、涼風、谷風、望月、三日月、浜風、天霧、初雪、長月、皐月
アメリカ軍
アメリカ軍第18任務部隊(W.L.エインスワース少将)
軽巡洋艦:ホノルル、ヘレナ、セントルイス
駆逐艦:ニコラス、ジェンキンス、オバノン、ラドフォード

損害
日本軍
沈没
駆逐艦:新月、長月
アメリカ軍
沈没
軽巡洋艦:ヘレナ

い号作戦(いごうさくせん)とは、日本海軍が1943年4月7日から15日にかけて第11航空艦隊と第3艦隊所属の艦載機により、ガダルカナル島やニューギニア島南東部のポートモレスビー、オロ湾、ミルン湾に対して大空襲を行った作戦である

背景
1943年2月1日から7日に日本軍はガダルカナル島から撤退した(ケ号作戦)。また、ニューギニア島でも連合軍の攻勢により日本軍は1月2日にブナが玉砕、隣接するギルワ、サナナンダも22日に玉砕した。さらに、2月28日から行われた日本軍のラエへの増援も失敗した(ビスマルク海海戦)。3月5日にはコロンバンガラ島への輸送を行った日本軍の駆逐艦がアメリカ軍の艦隊に撃沈された(ビラ・スタンモア夜戦)。その後、このアメリカ艦隊はコロンバンガラ島などを砲撃した。このような連合軍の大攻勢に対し、日本軍はラバウル周辺の航空兵力を集結し、ソロモン諸島およびニューギニア島東部への集中的な攻撃により状況の打開を図ることになり、連合艦隊司令長官山本五十六海軍大将自ら陣頭指揮すべくトラックからラバウルに進出した。

戦闘

4月7日(X攻撃)
零戦157機、九九式艦爆66機によるガダルカナル攻撃。

日本軍の損害、零戦12機、九九式艦爆9機。
連合軍の損害、駆逐艦、給油艦各1隻沈没など。
フロリダ沖海戦と呼称される。

4月11日(Y2攻撃)
零戦71機、九九式艦爆21機によるオロ湾、ハーベー湾攻撃。

日本軍の損害、零戦2機、九九式艦爆4機。
連合軍の損害、巡洋艦、輸送船各1隻損傷など。

4月12日(Y攻撃)
零戦131機、一式陸攻44機によるポートモレスビー攻撃。

日本軍の損害、零戦2機、一式陸攻6機。
連合軍の損害、輸送船1隻沈没、飛行場など炎上。

[編集] 4月14日(Y1、Y2攻撃)
Y1攻撃は零戦52機、一式陸攻37機によるラビ攻撃。
Y2攻撃は零戦75機、九九式艦爆23機によるミルン湾攻撃。
日本軍の損害、零戦2機、一式陸攻3機、九九式艦爆3機。
連合軍の損害、輸送船数隻沈没、ラビの飛行場炎上。

結果
4月16日、日本軍は十分な戦果をあげたと判断し、作戦を終了した。しかし、実際には連合軍にはたいした損害は与えていなかった。日本軍は多数の航空機を失い、ミッドウェー海戦以降急激に低下しつつある航空兵力は更に減少し作戦は失敗した。

い号作戦終了後の4月18日、山本五十六連合艦隊司令長官は前線視察のため一式陸攻でラバウルからショートランド方面へ向かったが、この途中、ブーゲンビル島ブイン上空でアメリカ軍P-38戦闘機の待ち伏せにあい、乗機が撃墜されて戦死した(海軍甲事件)。

この後、連合軍はニュージョージア島、レンドバ島に上陸。クラ湾夜戦、コロンバンガラ島沖海戦が発生する。